貝塚

supermany誤字

シャネル展

結構前だけどシャネル展に行った。

服飾や美容を専門的に学んだわけでもないし、いつからなぜと言われると明瞭には答えられないんだけどなんとなくシャネルが好きで、それはココシャネルが好きなのかシャネルの商品が好きなのか、あるいはシャネルというブランド力が好きなのか、やっぱり曖昧でよくわからない。が自分が執着するひっかかりの一つがほどけた気がする。

 

展示の中で一番印象的だったのが、「まずは理想のデザインを描く。その次に削ぎ落とす。ここで何かを付け加えることはしない」というキャプション(うろ覚え)。私はミニマルなデザインが好きだし、服飾にかぎらず様々な面で過剰な物質を削りたがる節がある。最も卑近な例で言えば断捨離好きだし。そういうミニマリストに近い「削ぎ落とし」の観念を、シャネルのアイテムに見出しているんだと思う。N°5のパッケージ然り、シャネルが黒を多用したこと然り、「最小限に削ぎ落として奇異なアイデンティティを形成する」ことに猛烈に惹かれるんだろうなー(だからこそコムドットとCHANCEの組み合わせは本当に受け入れられなかった、あれはたしかELLEも関わったしシャネルという大山のほんの一角が決めたことでしかないんだろうけど本当に2022年トップオブがっかり事件でした)。

 

アクセサリーの展示はあまり引きがなかったんだけど、パールのコスチュームジュエリーはとても素敵だった。シャネルはジュエリー制作において多く『太陽、星、十字架、植物』をモチーフとしたそうだがパールを「太陽」として用いていたのが印象的。展示されていたパールのジュエリーがたまたま私が好むシルバー系だったから覚えているだけ説もある。私の興味が過剰に服と香水だけに向いていてそもそもアクセサリー自体にそこまで関心がなかったから記憶が薄いんだろうけど、加えてシャネルの製品の中で唯一ジュエリーは「削ぎ落とさない」設計だった点でも好みの方向と違って盛り上がらなかったのかな?

 

あとは写真撮影スポットがしっかりゾーニングされてたのがありがたかった。最後の展示の後に個別の部屋として用意されてると順路を妨げないの完璧すぎる。映え目的が悪とは思わないけど撮影スポットって絶対滞留を生むし煩わしいので、写真撮りたい派と興味ない派が上手いこと共存できる設計いいなーと思った(蘇るイサムノグチ展…)。キュレーターありがとう

 

退場してアーティゾン美術館に向かうまでずっと考えていたこと↓

①過剰に過大に盛ることが普通だった当時のフランス(西欧)女性ファッションに、ああしたミニマルなデザインをもたらしたこと
②上述のデザインが現代の服飾の基礎となっていること
③2022年の女性から見ても圧倒的に魅力的で購買欲(着用欲)を掻き立てられるデザインであること

この3点が揃っている点でやはりシャネルは私にとって特別なブランドなのだなあと。特に①、シャネル本人は「女」であることを理解していたし生きるために利用もしたけど、ガチガチに固められた女性像に従順になるのではなくて、男女以前に「私」個人が快適でありたいからそのためなら型を破壊して再構築するっていうのがすごく良いんだよね。


デザイナーは違えど、近年のルックを見ていても最も心躍るのはシャネルだし(ガブリエルシャネルの死後すべてのルックを見たわけではないが…)、他のブランドにここまでの執着を抱かないというだけでもやっぱり特別なのかな。より軽くより柔らかく、既存のあらゆる基盤から解放されるため、最後のコレクションまでデザインし続けたココシャネルに勝手に自分を重ねたがっている節もあるかもしれない。
シャネル展に行って分かったのはシャネルというブランドやココシャネルのポリシーというより、シャネルと自分の距離感、シャネルに対する眼差し方だった。行ってよかった。

 

そういえばシャネル展で初めて図録買った。ほぼ衝動買い。図録とはいえインテリアブックに近いかも。展示内容をそこまで網羅してる訳ではないし、私みたいなファッション無知素人にもやさしめな解説だったので。まあそこは承知で買ったから良いんだけど、ショーケース越しでも生の製品(作品)を見るのと印刷された写真として見るのじゃえらい違いだなあと。何がどう違うのか上手いこと言語化できないが、アウラの凋落ってこういうことか〜を文学学術院生4年目にして初体験しました。ちなみにその後高知旅行でも同じ感覚に遭遇したので、そもそも凋落するだけのアウラがオリジナルに宿るのかどうかは鑑賞する人間の興味の強さ次第な感じもするな…